表現活動における矜持と諦観
火曜、明け方まで酷い咳でほとんど眠られず。10時頃起きて、病院。長男を義母に預けて帰宅。駅に流行のセルフ讃岐うどんがあったので入ろうかと思ったが、朝食を食べたばかりだったのでパスする。すでに昼食の時間帯は過ぎていたので、丸井のフードコートでうどんを食べて帰ろうと思ったが、甘かった。祝日のせいでブリ混み。
無性にうどんを食べたかったので、コンビニに寄り、でもろくなうどん麺は無かったので蕎麦を買う。珍しいことに、溝の口にも高津にも首都圏では定番の富士屋ソバが無いばかりか、高津駅前も、溝の口周辺も、ラーメン屋はくさるほどあるがうどん屋は一軒も無い。溝の口駅の改札内にあるだけ。
台所を片づける暇なく書店諸々用事を済ませていたら、あっという間に夕方。生まれて初めて映画館(ニモ)なるものを体験した息子を迎えに川崎駅。最初は、隣でマトリックスでも見ようと思っていたが、とにかく咳が酷いので諦める。下痢も酷く、電車が入ってきた途端、こらあかんわと引き返す。息子を連れて途方にくれるも、身障者用トイレに駆け込みセーフ。息子を抱いたまま電車の中で二人して寝ていた。
買い物して6時過ぎ帰宅、久しぶりにこの時間帯ゆっくり出来る。しかも地上波は見る番組も一切無く、大いに助かる。不思議でならないんだが、テレビ局の皆様は、こんな特別編成態勢を視聴者が歓迎しているとでも思っているんだろうか。
※ アメリカでBSE
さっそく今日から牛肉の値段は上がるんだろうなぁ。農水省の発表が嬉しそうに見えるのは気のせいだろうか。
※ ドルが降ってきた 名古屋テレビ塔で男性、紙幣ばらまく
NHKのニュースで観たけれど、年明けの週刊誌の楽しみが増えたね。株で儲けたあぶく銭だそうだが、どんな人だろう。でもこういう行為って、結局はそうやって衆愚が騒ぐことをして自分のステータスの高さを再確認するという、単なる愉快犯でしか無いんですよね。
しかしなぁ、普通、拾うか? 千円札ならともかく。
※ ビッグマウス〈虚言癖〉日垣隆、週刊エコノミスト「敢闘言」
すっちーがシートの倒れ具合をしつこく突っ込むことを揶揄してらっしゃるんだが、それって年末の経済誌の巻頭コラムで書くようなネタか?
私自身も、あれはちょっと度が過ぎていると思います。他に彼女らが注意を割くべきことはいくらでもあると思う。
しかし、それに注ぎ込むエネルギーが膨大であることには、もちろん理由があるでしょう。まず第一に、あのシートが元に戻っているか否かをしつこくチェックして、それを乗客に強いるという行為は、彼女らにしてみれば、ある種の心理テストです。つまりそうすることによって、その便で誰が問題を起こしそうな乗客かをマーキングする一助になる。第二に、そうやって従わせることで、彼女らは、その空間にはルールがあり、われわれがそれを行使しているということを乗客に意識させることなくソフトに認識させているわけですね。
墜落時の衝撃緩和度に関して、自動車事故と比べてどうなのか? という話も日垣さんは書いておられるけれど、まず墜落を前提とした衝撃緩和姿勢をいちいち利用者に強いるのは今の大量輸送時代のご時世ではナンセンスです。エコノミーに関して言えば、それに応ずるシート配置の余裕もない。シートがちょっと倒れているだけで、乗客の脱出の邪魔になる。
見逃せないのは、リクライニング・シートというのは、中途半端な角度では、衝撃に対して十分な強度を恐らくは持ち得ない。それらの工学上の安全を考えると、「リクライニングを戻せ」という行為は、乗務員が乗客に対して求めることが許されるぎりぎり最低限の安全対策だろうと思います。
確かに、あの慇懃無礼な態度でしつこく言われるとむっとするのは事実だが、それくらい従えばいい。
※ 皇族発言を称える人々
日教組教育を受けたせいか、皇族の発言を聴いても、生まれてこの方、1度も、何かの感慨を抱いたことはない。そんなのはあらかた宮内庁の筆が入った後で、そもそもわれわれが皇室のナマの発言に接する機会など滅多にないから。
昨日の発言に関しても、各方面に配慮した当たり障りの無い文面だなと言う程度の感慨は全く無い。それは誰かさんの日記を読んでも、全方位配慮の文面であったことは十分に読み取れる。つまりはどうとでも取れるよう十分に配慮された文章だった。
ポチ保守的な視点に立てば、先の大戦に関して犠牲を強調するばかりで、その理念や大義に目配りしないのはどうか? という見方も出来るだろうが、これは私にとってはさほど興味のない点。ちょっと驚いたのは、彼の以下の発言。(私だって、一応常識人であるからして(-.-)、人前では「陛下」ぐらいの言葉は使うが、人は皆平等であるという原理原則を堅持する人間でもあるので、過度の敬語を用いることには興味はない)
【 私自身も、そのような気持ちで沖縄への理解を深めようと努めてきました。私にとっては沖縄の歴史をひもとくということは、島津氏の血を受けているものとして心の痛むことでした。しかし、それであればこそ、沖縄への理解を深め、沖縄の人々の気持ちが理解できるようにならなければならないと努めてきたつもりです。】
彼が「島津家」という自分の血筋に関して発言したのは初めてでは無かろうかと思う。実は先般、平成にして初めて鹿児島入りがなった時(それで日本全県周遊がなった)、私はメルマガにおいて、「軽井沢で避暑を楽しむ暇があったら、まずは全県回るのが筋では無いか?」と書いたのだが、やっぱりこの人の頭の中では、それがあって鹿児島入りは最後の最後に回されたわけですね。つまり彼は、鹿児島に対してかなり深い郷土意識があることがこの言葉からも実際の15年間の行動からも読み取れる。これは歴史的に見ると、明仁天皇に関する極めて興味深い発見では無かろうかと思う。
で、このテーマの本題はそういうことではなくて、世の中には、皇族を礼賛してやまない人々が一定数います。天皇制自体が、かなり強い宗教性を帯びている以上は、致し方ない部分はある。私は市井の人々がワイドショー的な感覚で皇族へのシンパシーを表明する程度のことに目くじら立てるつもりはありません。この人たちにとってはせいぜい日常では決して使うことのない究極の尊敬語を訓練し、かつ楽しんでいる程度の意味しかないのですから。
この際、テレビや新聞も許そう。天皇制批判と受け取られかねない報道でやっかいごとを抱え込みたくはないだろうから。しかし、諸々のしがらなみの無いはずの個人、独立したプロの表現者で、彼らの言動を礼賛する連中がいるのはどうにも解せぬ。いい加減な下ネタで皇族を揶揄していたどこぞの県知事まで、ペログリ日記では、皇室礼賛を書き散らかす昨今とは言え、天皇制をどう捉えるのかの見解を表明することなく、その言動を礼賛する行為に、表現者としての矜持と諦観はありや? と問いたい。
その問題の本質を問うことなく世間に迎合して物言いするのは(俺の誉め言葉が一番偉いってか)、食というものから思想や哲学を削ぎ落として日本の食卓を席巻した外食産業か、はたまたセルフのうどん屋みたいなものだと思う。食えりゃ良いというものでもないでしょうに。
昨日買った週刊ダイヤモンドの話とか、SPA!の話もしたいんだが、また後日。水曜には、喉の調子は劇的に改善され、声がれも治まり、咳が残る程度で楽になる。
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