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2003.12.29

記憶の中の家族

 日曜、今年唯一の忘年会一件、川崎いつものお店にて。なんで日曜かと言うと、「アマチュア漫画家の祭典開幕」(←朝日)というナイスなイベントがあるから、地方からの上京者が一杯いるかららしい。
 10時過ぎの電車にて女房実家。長男機嫌悪く、母親の愛情を奪う新たな敵に嫉妬心丸出し。蹴るだの殴るだのと口にする。年賀状を処理しつつ、朝まで次男の面倒を見る。珍しく行儀良かった。テレビ、何も見るものなし。やむなく有線で入っていたFOXのマッドTVを観る(しかし夜中の3時4時に、赤ちゃん抱きながらこんな番組を2時間も見るのはちょっともの悲しいものがあるぞ(-.-))。このエリアにケーブルを提供している会社は、以前はスーパーCHも入っていたのに、それを切って海外ドラマはFOXとミステリーCHだけに。やっぱりスーパーCHって高いんだろうなぁ。でもここはBSが見られるんだよね。これは得点高いかも。ただし、私がいた時に限って見たい番組は無い。
 HDDデッキの弁当箱を取り外して、他のデッキに突っ込めるようにならないものだろうか。そうすれば、よそで過ごす正月もだいぶ前向きに考えられるんだが。
 日テレの「時空捜査一課3」を予約し忘れたことに気づく。不覚だ。早く再放映して欲しい。
 ビデオデッキの中の溜まった番組処理に頭が痛い。東芝のデッキの中身は、これはRAMに追い出して後で見れば良い(という理由で結局は見ないわけだ)。問題は、1.5倍速再生が出来るビクターのHDDデッキと、1.3倍速のパナソニックのVHS。速見再生で東芝に追い出し、更にRAMに追い出すという手もあるが、通常速で見たいシーンがあったりすると困る。その程度くらい通常速で見ろと言われそうだが、1度あの速見再生の魅力にとりつかれたら、そんなとろいことはとても出来ない。

 月曜朝、始発で帰るつもりが女房全然起きず。従って夜食にもありつけず。6時半頃電車に乗る。べらぼうに寒い。まるで2月みたい。途中、横浜駅で一分ほど停車した時に、日の出に遭遇する。最初は何かの工事の電球かと思ったが、停車している僅かの間に、ぐんぐんと昇ってくる。奇蹟だと思った。南武線の中で年賀状を仕分け。まず、九州北海道方面を駅でポストに投函する。牛丼屋へ向かいながらあれ食べよう、これ食べようかと思案しつつ覗いたら、8時前だというのにシートが埋まっている。ショボーンとして、コンビニに寄って帰る。ちょっとヘトヘトだ。
 母親の協力が得られるからと実家に帰ったはずなのに、当然家族して夜は寝るから、たまたま生活リズムが逆転している私が夜間は世話する羽目になる。それは良しとしても、毎晩、こっちに来て面倒見ろなんて無茶なこと言って欲しく無いぞ。だったら実家に帰らずに家にいた方がなんぼか楽なことは解りきっていたはずなんだから。

※ 西和彦インタビュー 朝日

 何でも家賃10万円の1LDKにお住いだとか。この人、アスキーは失っても、田舎の学園長のポストは持っているから、何もわざわざ「こんな落ちぶれました」というような生活を演出する必要はないんだよね。
 いろいろ散財するような馬鹿な真似もしたけれど、出版社としてのアスキーがダメだったわけじゃない。でも結局、週刊アスキーは会社を救えなかった。出版事業なんて、日常の資金を回すのが精一杯で、とても儲けが出る商売では無いことに彼はもう少し早く気づくべきだった。
 アスキーを興したのが孫正義で、Yahooを買収したのが西和彦だったら、日本のIT業界はどう変わっていたのだろうかと思う。

※ 社歌、オリコン上昇中

 私はアマゾンを使っていないので、アマゾンのランキングがどうなっているのかほとんど興味が無いのですが(てか全く知らない)、何でも昨今は萌え系の、れいのお兄ちゃんムックが上位独占という珍事もあったらしい。
 で、この社歌がオリコンの上位に来たというのは驚くべき状況でして、これは何を意味するかと言うと、それだけCDが売れなくなった、全体のマーケットが縮小してきたということです。一時期、私みたいなヲタクな物書きの本がベストテンに顔を出すことがあった。常識的に考えれば、この程度の部数であり得ないだろうと思うようなことが平然と起こった。それはなぜかと言えば、全体のパイが縮小したがために、私らみたいな特殊系の、さして部数が上下しない本が上位にランキングしてしまう。五年前に出版界で起こった現象が、とうとう音楽業界で起こり始めた。

※ ぼくは誰? 言葉を話せない少年保護されて1年 朝日

 年の頃12歳前後、保護された時は身なりはしっかりしていたれども、知恵遅れがあって言葉は全く話せず、何人かも解らない。中国人がわざわざ知恵遅れの子供を日本に連れてきて捨てるとも思えず、恐らくは子育てに疲れた親が置き去りにしたのでしょう。
 言語中枢というのは、幼児期に完成されるため、これを後天的に開発するのはほとんど不可能と長年言われてきた。今その定説も覆されつつあるけれど、この少年と親が歩んだ十数年の心象風景を思うに、鬼畜な親とはとても切って捨てられない。育児放棄、ネグレクト、子捨ては今に始まったことではない。
 せめて10年、この子のために親としての義務を果たして頑張ったことを誇りにして、社会に助けを求められなかったのだろうかと思う。
 この少年は、あと半世紀は生きる。脳機能の研究は格段に進歩し、知能の補完はもとより、彼が記憶した家族の断片情報を再生することも可能になるかも知れない。そめてその時、彼の記憶の中によみがえる風景が、辛い体験では無く、心温まるものであることを祈りたい。

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