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2004.04.19

荷物はなぜ無事だった?

※ NHK特集 イラク復興・国連の苦闘

 NHKらしく、思い切り国連幻想に寄り掛かった構成でしたが、アナンは(大国の出動が遅れて)大虐殺を阻止できなかったルワンダの経験から、誰よりアメリカとの協調を優先して来たと言いながら、結局は国連の原理原則に固執したばかりに、出番を失ったんですよね。国連と言ったって、国連という国籍を持ち、特段の無謬姓を備えた人々がいるわけでもない。ましてや、国連軍の編成となったら、結局はアメリカ以上にその任務を遂行する能力を備えた国はいないのに、この人たちが言うことは、アメリカにも対して、他国と全くイーブンな地位と権利しか与えず行動しろと言っているわけで、そらちょっと虫が良すぎるでしょう。

※ ここに残る疑問

 昨日だったかな、夕方の日テレのニュースを見ていたら、おやっというシーンがありました。解放直後、結局日テレの独占映像となったビデオに、郡山さんが一眼レフを構えるシーンがある。一瞬しか映っていないので、機種はちょっと解らなかった。日テレはそれをEOSのシステムと判断したらしい。もちろん郡山さんの自前らしい。
 同じく誘拐された韓国人が、誘拐された日本人を現場で目撃したという証言がありました。私はこれを「固い情報」だと書きました。今でも、この時の目撃証言が三人に間違いないだろうと思われている。ところが、この時の目撃証言では、三人がその場で荷物を焼かれて呆然としていたという証言が伝えられた。
 一方で、三人がモスクから大使館へ向かう時には、荷物の全てが揃っていた。建物の外で荷物を受け取るシーンがある。郡山さんなんかザックを背負い、しかも一式100万円はするEOS-1D(V?)まで還ってきていた。いったいこれはどういうことなのか?
 考えてみれば、バッグの中は現地人にとっては金目の物で一杯だろうし、ザックの類は御近所で売れば結構な値段になるはずだから、誘拐現場で燃やすという話も変。さて真相はどこにあるんだろう。私自身は今でもこの目撃証言は間違いないと思っていますけれど、たとえば彼らの前に車を止められた旅行者の私物等、何か全く無関係なものがたまたま燃やされていただけなのか? それを目撃者が早とちりした可能性はある。
 しかしそもそも何故、あんなにきっちり荷物が還ってきたのだろう。どうしてもあれだけは解せない。同じことを、命令系統がきっちりある軍隊がやっても、荷物なんて跡形無く消えて無くなるでしょう。それこそ米軍が同じことやってもあっという間に荷物の中身なんて無くなりますよ。なのに、どうして彼らの荷物が一週間も無事なまま還ってきたんだろう。荷物があったのに、彼らはどうして一週間着替えさせて貰えなかったのだろう。
 唯一考えられることは、この作戦の大元は、彼ら誘拐犯に軍隊以上のモラルを強いることが出来る組織、ぶっちゃけ宗教団体がきっちりとマネージメントしていたからとしか思えない。

 帰国した三人がPTSDだとかで、それを言うなら、事件でPTSDに陥ったのじゃなく、国内でここまで大事になっていることにショックで言葉も出なくなったというのが本音でしょう。
 北海道出身の二人は、未成年者もいることだし、このまま北海道に一端帰るにしても、東京で独り暮らししている郡山さんまで、宮崎に帰るようなことを先走って書く人々はどういうつもりなんでしょうね。そらまるで、閉門蟄居を暗に強制するようなもので、地方出身者が東京で犯罪を起こして、田舎に帰れと言われているわけじゃないんだから、そこまで言うか? と思う。

※ キミット准将

 昨日、イラク駐留米軍報道官のキミット准将が会見の最中に一瞬気を失ってマイクに倒れかかるという珍事がありました。そのシーンが世界中に繰り返し流された。この人、普段は結構きついことを言う報道官なんですが、数分して会見場に帰って来たら「インフルエンザだ」と苦笑して弁解した。
 でもまあ、米軍が今置かれている状況を暗示するみっともない出来事でしたね。

※ 小泉来鹿

 ここでいう来鹿は、鹿児島の鹿ではなく鹿屋の鹿。統一補選の応援らしいんだが、現職の総理が鹿屋を訪れるのは、有史以来初めてのことだと思う。彼より前の有名政治家の来鹿は、社会党絶頂期のオタカさんで、その時は旧市役所前の歩道橋に立ち、広場が聴衆で埋め尽くされたとか。今回の小泉さんは、バイパス沿いの、潰れたダイエー跡での演説だったらしい。1万人が来たとか。ヘリでもチャーターしたのかと思いきや、あの山ん中を2時間飛ばし、30分演説してまた2時間掛けて空港まで走ったらしい。せめてもう30分時間を取って史料館に寄って欲しかったけれど。
 ちなみに、小泉総理の父親の出身地である万世の陸軍特攻基地跡(滑走路跡が良い道路になっている)では、土曜日に慰霊祭が行われた。ここでは、終戦までの四ヶ月間で200名の特攻隊員が散華して行った。これ以上に適当な言葉が無いので「散華」という言葉を使うんだが、正直、「散華」という文字を見ると、私はいつもしかめっ面になる。この言葉が持つ美しい響きとは裏腹に、特攻作戦はあまりにもむごかったから。

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