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2008.06.01

ある風景

 このエントリーは、J-CASTがガソリンと火炎放射器を担いで飛んで来そうなネタなので、コメント不可です。コメント欄は最初から閉じてあります。

 この話を理解していただくには、私の義兄が何者か? ということを明らかにする必要があります。私はこれまで、いかなる形でも、義兄の素性に関して書いたり話したりしたことはありません。周囲でも、知っている人間はごく僅かです。それは義兄の周囲でも似たり寄ったりだろうと思います。
 なぜ今日までそれを明らかにしなかったかというと、私自身、そういうことを宣伝するのは全く好きじゃないということと、義兄も固有名詞で仕事していますから、私にくっついているストーカー紛いのちゃねら~のターゲットにされると迷惑を掛けるだろうという判断がありました。
 私の義兄は、二期会に所属するクラシックの指揮者です。たぶん普通の人々は、日本人で知っている指揮者名を上げろ、と言われたら、3人辺りが限界でしょう。5人も上げられればたいしたものです。ただ指揮者の数自体は、意外に多くて、ひょっとしたらプロオケに於ける管楽器の演奏者より多いかも知れない。だって演奏者が一人いなくてもコンサートは開けるけれど、指揮者がいなければコンサートは開けないでしょう。だから探せば、実は指揮者というのはそこいら中にいます。

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 前段として、もう2年近く前になるのかな、義兄が何かの音楽雑誌に連載したエッセイを一冊の本に纏めて出すという話がありました。実姉から推薦文を頼みたいのだが? という相談を受けて、その時に私は断りました。「そういうのは業界内で回した方が良いから、批評家とかに書いて貰った方が良いんじゃないの?」という形で。
 私自身、出版業界の人間として、それがベストな方法だろうと思ったし、義理の関係とはいえ、身内が推薦文を書くという行為は、はしたないとも思った。別に私が推薦文を書いたからと言って、売れるなんてこともまずないし。何より私はクラシックの世界とは無縁だし。業界の外にいる私がしゃしゃり出ることで、あちらの業界で義兄があれこれ言われやしないだろうか、ということも心配した。姉は、その時は「分かった」という形で、しばらくその話は持ち出さなかった。
 姉の性格を知っている私は、この時点で、どうせこちらの真意は微塵も伝わっていないだろうけれど、どこかできちんと説明できれば良いけどなぁ……、と思っていたけれど、結局その日は来ないまま姉の精神状態が悪化し始めた。

 最初の異変は7月頃でした。帰省していた姉から、くだらんメールが届くわけです。親父が言うこと聞かないとか、薬を飲ませるのが大変だとか、ほとんど愚痴でした。日に何度かそういうメールが届く。今思い返すと、その時点で被害妄想だけでなく躁鬱症ぎみな部分も始まっていたのでしょう。私はそれを仕事中に読まされるわけですよ。仕事のテンションがそこで一気に断ち切られる。そういうことが姉には全く分からない。旦那の仕事も似たようなものだから、少しは察しろよ、と思ったけれど。旦那にも似たようなメールが頻繁に届くということだったので、私は義兄に何度か謝りました。
 ただ返事が必要な時にはもちろん返事を書くし、バカらしい時には無視していた。とうとうある日、「私たちは夫婦して虐められている」というメールを送って遣したわけです。何の脈略もなしに、唐突にそういう文章が綴られていた。
 私はちょっと頭に来て「愚痴なら聞くが訳のわからんメールを遣すな」と返事したんです。したら「お前には聞く義務があるだろう。旦那はお前の何倍も私の愚痴を聞いているんだぞ。もう返事は要らない。書いても読まずに捨てるから」と絶縁めいた返事が来た。たったそれだけのことで。
 私の姉は10代の頃から酷いヒステリー持ちで、親父もそうでしたけれど、とにかくこの二人がいつ癇癪を起こすか私は戦々恐々として10代前半を過ごしたものです。思春期の頃の私は、姉のそのヒステリーに付き合わされていたお陰で結構女性不信でしたね。
 ただ姉はそういうことを平然とメールで書いて遣す人間なので別に驚かなかった。むしろこれでやっと解放される……、と正直私は胸をなで下ろした。
 それをきっかけに、今度はその手のメールが女房宛に届くようになった。姉の考えははっきりしていて、私宛に書くと反論されるから嫁宛に書くんだということを女房に堂々伝えたらしい。

 それからしばらくして、田舎の婆さんから電話が来て、姉に何か好かんことを言ったのか? と私に怒るわけ。間隔を置いて二度くらいそういう内容の電話が来ましたね。よほど姉から催促されたんでしょう。私としては親を心配させたく無いし、その辺りのことを話してしまうと、もう娘も帰ってこなくて良いという話になりかねないから、「あんたが心配するようなことは何も無い」と応じたんです。いっさい反論めいたことは言わなかったし、事情説明もしなかった。姉が何を婆さんに吹き込んだのかも、だいたい察しは付いたけれど興味は無かったし。
 この時点で、婆さんと娘の、親子としての主従関係が完全に逆転したなと感じました。婆さんはこの頃から姉の言うがままだった。というより婆さんは、姉のご機嫌取りに汲々としている感じだった。自分の娘なのになんでここまで気を遣うんだろう、と不思議に思うようなことが何度もあった。
 その後、私がこちらを留守にしていた時に、姉が女房と会う機会があって、もちろん私の女房はそんなことがあったなんて何も知らないわけですが、その何の事情も知らない女房に向かって、わざわざその話を持ち出して「婆さんが叱ってくれたんだって?」と凄く嬉しそうに話したらしいんですよ。
 私はその話を女房から聞いて、もう正常じゃないな、でもまあ本人がそれで気分爽快なら良いだろうと思ったわけです。
 ただのちに解ったことは、どうやらこの時の婆さんの対応が、その後、姉の言動がエスカレートするきっかけを作ったらしい。つまり、自分は誰に対してどういう態度に出ても母親が守ってくれる庇ってくれるという錯覚を姉が持つようになって、事実この後の経過を見ても、その勘違い通りに婆さんは行動するんだけど、婆さんの態度が、姉の嫁いびりに拍車を掛けることになったことは間違いない。

 その前にもいろいろあって、たとえば夏の入り口で姉が帰省した時に、羽田まで迎えに行ったんですよ。向こうの状況を知りたいし、ご苦労様も言わなきゃならないだろうから。したらその時に、「疲れているから後でメールを遣す」と言って何も話を聞けなかった。それを聞くためにわざわざ羽田まで出てきたのに、私の都合お構いなし。たった5分で済むことなのに。
 メールに関する考え方が、われわれと逆なんですよ。そんな大事な話をメールでするな、ということをわざわざメールに書いてくる。
 私は誰からのメールにせよ、急ぎでないメールに関しては、日にちを置いたりします。それをして、私が返事をくれない、と姉は怒るわけ。返事が必要な急ぎの要件なら電話を遣せ、という世間の道理が全く通用しない。そんな要件はまず無いんですけれどね。どんなに下らないメールでも、速効で返信が無いと怒る。この辺りは、ある種の適応障害に近いですよね。年齢を考えると、更年期障害もあるんでしょうが。
 しかも後日届けられたそのメールに、一番お世話になっている隣の親戚のおばさんに関して「あの人は基地外だ、精神病院に行くべきだ」と書いてある。メールを読んだり直接話を聞いたりして、ここまでは事実としてあったんだろうけれど、ここから先は本人の被害妄想が多分に入っているな、というのが何となく分かる。
 私はそれを読んだ時点で、そろそろ限界かな、と思いました。たとえば姉は、爺さんが家の中でお漏らししたり紙おむつが臭うことを嫌で溜まらないと訴えるんですけれど、私は何とも無いんですよ。子育て中だから。子育ての経験がない女に老人介護は無理だとつくづく思いましたね。なんでこの程度のことでいちいち嫌がるんだろう、この後さらに悲惨な場面が山ほどやってくるのに、と思った。
 たとえば、爺さんがまともに薬を飲まないことをブツブツ言うんだけど、そんなこと気にしても仕方ないじゃないですか。一日に飲まなければならない薬が20錠近くなる。婆さんは眼が悪いから管理できない。家の中のそこいら中に、飲み忘れた錠剤が散らばっている。
 われわれが自分で管理出来ない以上、それを気にしても仕方無いでしょう。それを飲まなかったから寿命が縮んだにしても、80歳過ぎて生きたんだから十分でしょう。
 姉は子育ての経験はないし、かなりの潔癖性だし、そもそも鹿屋の家で過ごしたのもほんの数年間だったし、特に親父との関係も良くなかったし、故郷という意識も希薄だろうし。ましてや、私もそうだけど形としては親を捨てて都会に出て行って、しかも子供もいない女に対する村社会の視線がどんなものかは想像が付く。居場所が無い。居心地が良いものでもないでしょう。実家と仲違いしていた期間も長くて、隣近所は当然それを知っているわけだし。

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 私が長男を連れて帰省したのは8月の下旬でした。たしか30日だったと思うけれど、羽田に帰ってきた時に、今度は姉が迎えに来てくれて、ただこの時に、私は姉にとって決して愉快ではない話をしなきゃならなかった。
 秋に予定していた新刊ハードカバーの推薦文を指揮者であるS氏に書いて貰いましょう、という話が進行中でした。「あまり愉快な話では無いと思うけれど、実はこういう企画が進行している。一応話しておくからね」というつもりで話し始めたら、案の定、姉が烈火のごとく怒り始めた。止めろというわけ。私も、ブツブツ言われるだろうとは覚悟していたけれど、止めろとまで言われるとは思わなかった。だって仕事ですよ。仕事の世界じゃ、思うようにならんこと、不愉快なことが山ほどあるじゃないですか。なのに私の都合なんか全くお構いなしに止めろと言う。またしても「私たち夫婦はみんなから虐められてる!」と決まり文句を繰り返すわけ。
 しかもS氏を巡って、かつて爺さんとの間であった大昔の確執まで持ち出す。それも、下らない話なんですよ。S氏がクラシック界で最も栄誉ある賞を貰った時に、当然、田舎では大々的に報じられるわけですよ、その時に、「旦那はどうなの?」みたいな話をうっかり口を滑らせたという程度のことですよ。教師なんて所詮田舎のインテリですから、その辺りのデリカシーを求めても仕方ない。なのにその程度のことを未だに根に持って、夫婦して親から侮辱されたとか言う。
 ちなみに対談の企画は、S氏の固有名詞が先にあったわけではなく、たまたま先方のオケの事務方に私のファンがいらして、何かご縁があれば……、ということがきっかけだったらしい。後でその対談相手がS氏と解って、義兄の存在を知っている編集部が気を遣ってくれて「問題無いですよね?」という打診があって、私は「何も無いですよ。喜んでくれるでしょう」と応じたんです。姉の性格からしてブツブツ言うだろうとは思ったけれど、まさか義兄がそんなことで機嫌を損ねるとは思えなかったし。

 その話をしたのは確か川崎で京急線からJR駅へと歩く途中だったと思いますが、私は姉には「じゃあこの話は無かったことにするから」と応じて、もう溜息を漏らしながら、南武線のホームに立って、編集宛てに携帯メールを打ちましたよ。もう婦人公論の対談のスケジュールを詰めなきゃならない時期だったので、かくかくしかじかの事情で姉が激昂している。こちらの一方的な事情で申し訳ないけれど、この話は無かったことにしてくれませんか? と。
 それで一端企画は止まったんです。ただ翌日以降またやりとりがあって、この企画は、グループとして回っていて、S氏が監督するオケも非常に期待している。それでも止めますか? という話になって、私一冊の本で済むのであれば、きっぱり無かったことに出来るけれど、オケのパブリシティとして、相手側も期待しているなんていう話になったら、止めようが無いじゃないですか。だから姉のことは仕方ないなと思って、対談も推薦文もそのまま続行したわけです。少なくとも業界人たる義兄の理解は得られるだろうと思ったから。

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 そうこうしているうちにハードカバーは完成し、その間も女房宛に、返事の書きようがないメールが届いていたわけです。私は、姉の精神状態を悪化させるだけだし、つまらんことを根に持つ女だから、とにかく当たり障り無いことだけ書いて返事しておけ、と命じましたが。
 で姉が9月に帰省した時の話をしたいから、ということで、川崎駅で、姉夫婦と会ったんです。その時に、出来上がったハードカバーと、うちにあった出版社から送られてくる本を見繕って渡したんです。テーブルにそれを並べて出したら、姉は私の本だけ「これは受け取れない」と突っ返すんですよ。卒倒するかと思いましたね。隣りで義兄が、携帯弄りながら素知らぬふりで黙って見ている。本当に無礼千万な奴。
 姉は「S氏もなんでこんなことを引き受けたんだろう。どうして断ってくれなかったんだろう」とか言うわけ。義兄はそこで携帯弄ったままやっと口を開いて、「それはもう良いから」みたいなことを言ってましたね。
 私はそのまま席を立って帰りたかったけれど、我慢して聞きましたよ。年明けに義兄にその話しをして「自分が指揮するコンサートのチケットだけ突き返されたら貴方は不愉快じゃないですか?」と話したら義兄は「そもそも僕は君があんな本を差し出したことに驚いた」とか抜かすわけ。おいおい、曲がりなりにもあんたの協力を得た本なのに持ってこないわけにはいかないだろう。せめてあんたが受け取るのが礼儀ってもんじゃないのか? と思ったけれどその場では言わなかったですよ。
 協力と言ってもたいしたことじゃないんですけれどね、ググれば済むようなこと。でもクラシックの話を書く時に、一言相談してくれれば良かったのに水くさい……、という話になるじゃないですか。だから私は、ちょっとしたことを義兄に聞いていたんですよ。姉は、そのことでも怒っていた。旦那が協力した本の推薦文をよりによってS氏に書かせるなんて、と。姉夫婦の中で、S氏の存在というのが親の仇みたいに肥大している。
 私は、そこでも、ことの経緯を姉にきちんと話したかったけれど、とにかく話をさせないんですよ。自分にとって物事が気にくわない展開になると、「わかった」と制してそれ以上、喋らせない。それでいて後で必ず曲解して蒸し返して恨み言を言うんです。ここしばらくの姉の鉄板パターンだった。
 その時の姉の表情は、顔を合わせた瞬間からもの凄く思い詰めた顔で、全くまともな精神状態には見えなかった。れいによって今度は、「隣近所中が親を虐めている」と言い始める。親父が倒れて救急車を呼ぶたびに世話してくれる人々ですよ。かなり被害妄想が進んでいると思いました。
 隣りの親戚に関しても、機嫌を損ねたくないから最近は帰省する度にお金を渡している、と言うんですよ。これも私にとっては驚くような話で、私は今日あるだろう事態が分かっていたから、隣家の次男が上京して大学入る時には、受験、予備校から院を出て就職するまで面倒見たし(てか、先に出てきた者の義務として、そうやって何人か従弟の上京生活を手伝った)、自分が帰省する時には、叔母叔父さんへの土産とお酒と、孫が出来てからは、東京でしか買えない服とか買って帰るんです。上京してからずっとです。隣家への挨拶を欠かしたことは一度もありません。自宅の玄関に上がる前に、荷物を土間に置いたまままず隣りに寄って挨拶してから靴を脱ぐ。そんな当たり前のことすら姉は素通りして来たわけですよ。そりゃもうしょうがない。そもそも親が元気な頃は帰省自体を嫌がっていたんだから、墓参りなんてもう何十年もしていないし。そんな当たり前の習慣が身に付くはずもない。

 私はこの時点で、しばらく付き合わない方が良いだろうと思ったし、義兄にも頭に来てましたよ。男の仕事の現場にくだらん妬み嫉みでもって口を出すような女房をどうして放っておくんだろう、と。お前は男としてこんなこと言わせて恥ずかしくないのか、と。

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 それで、あれは11月だったかな、姉が楽しみにしていた長男のあるイベントがあって、私は姉を呼ばなかったんです。頭に来ていたから。症状を悪化させないためにも当分会わない方が良いだろうと思ったし。
 というのも、被害妄想のパターンですけれど、過去に会った時の断片断片が蘇ってきてその妄想の材料にされるわけですよ。事実、女房宛のメールに、そういう昔の出来事が連綿と綴られるようになって来ていた。私としては 、新たな嫁いびりのネタにされたくもないから当分家族を会わせまいと思った。田舎の婆さんを使って「もうすぐだねぇ」みたいな探りがあったけれど、私は呼ぶつもりはなかったから、聞こえないふりして無視した。
 したらそのイベントが終わった途端、家族一同感動の余韻に浸っているまさにその瞬間に、速攻で姉から女房宛に嫌味なメールが届いて、田舎のことを押しつけているとか、仕舞いには、旦那が出した本は自費出版じゃない! とか書いてあるわけ。そんなこと俺の女房に言ってどうするんだよ、何も聞かされていないのに、という内容がだらだら綴られている。
 しかも案の定変な誤解をしている。姉夫婦の側には、私が義兄のエッセイの推薦文を書けば本が売れるみたいな誤解があったのか、しかも私がそれを断ったのは、バカにしたからだという理屈になっているらしい。
 後に義兄は、そのイベントをしてお姉さんはとても楽しみにしていたのに……、とか言うんだが、てめえの家来でもないのに、この俺がどんなお人好しに見えればこの期に及んでそんなことをするとでも思うのか。そんなに楽しみにしていたんなら、てめえが俺にメール一本でも遣して頼めば良いだろうに、と思った訳です。

 その後、姉はまたクリスマス近くに帰省するわけです。一週間の予定が、また親父が倒れて、結局正月明けまで向こうにいることになった。私は、これはもう駄目だと判断して、専門医に委ねさせるしかないな、と思って義兄にメールしたんですよ。年末のコンサートが立てこむ時期でしたけれど、忙しい最中に申し訳ないが、ちょっと時間を取って貰えませんか? と。姉をさっさとこっちへ帰してくれ。しばらく帰省もさせなくて良い。自分が帰るからと。実際に私は帰る準備をしたんですけれどね。これが、毎回毎回、一週間で済むものを、姉はいったん帰省しちゃ、いつも3週間くらい居着くんですよ。愉快なことがあるわけでもないのに。それでますます心を病むことの繰り返し。疲れるだけだからさっさと帰ってこいと言うのに居座って、愚痴をこぼして病んでいく。そういう1年だった。
 介護の現場には、限界ってあるでしょう。子育て同様に、ここまでは出来るけれど、これ以上は無理という場面が山ほどある。姉はちょっと完璧主義者な所があって、それが我慢ならないし、手の抜き方も解らない。

 義兄にはもの凄く丁寧なメールを書きましたよ。平身低頭、何処に出しても恥ずかしくない内容で。とにかく、姉のことで何かあると、「会って頂けませんか?」と申し出るのはいつも私の側なんですよ。もううんざりしていたけれど。

 年内は忙しいということで、正月明けに私の方が出向いて会うことになった。時間が開きすぎるので、メールで書いて良いようなことでは無いけれど……、と断った上で、もう明らかに正常ではないから、心療内科に連れて行って貰えませんか、と書いた。ただそのメールをやりとりする中でとんでもないことが露呈する。なんと、最後に姉が女房宛に送って遣したメールを義兄が事前に読んでいたというんですよ。その時に、「こんな内容のメールを送るのか?」とレスポンスはしたけれど止めなかった、とかいう。
 私はおったまげましたよ。お前なぁ! あんな嫁いびりのメールに目を通して人の女房宛に送らせたのか? しかも俺の本は自費出版じゃねぇ、とか究極にみっともないことまで書かせて。
 私は速攻押しかけて蹴たぐってやりたかったけれど、それを押し殺してやりとりしたわけです。忍従に忍従を重ねてひたすら平身低頭に、姉を病院に連れて行ってくれと頼んだ。何しろ正月明けまで時間が取れないとか言うから仕方なかった。
 したら義兄も、ほんとにただの田舎もんだから、当然、女房を精神病院に連れて行けなんて話は、最大級の侮辱だとしか受け取らないんですよ。てめえ、自分の女房の精神状態に驚くほど無頓着なくせに。挙げ句に嫁いびりまで手を貸しやがって、と腸が煮えくりかえったけれど、ひとまずは正月明けまで待つことにした。

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 それで、1月4日のことでした。呼び出した手前こちらが行くしかないから、また川崎駅まで出ました。末広誠
  とにかく、この男が昔から「尊大」を絵に描いたような男で、のっけから上から目線で喋るわけ。いつものことだけど。末廣誠
 職業上の癖なのか、とにかく他人を見下してしか話が出来ない男なんですよ。私のことも初対面の時から○×君。20年間ずっとそう。ただの一度として彼から「さん」付けで呼ばれたことはありません。たった3つしか歳は離れていないのに。こいつは俺が60歳になっても君呼ばわりするんだろうな……、と思っていた。もちろんそれで文句を言ったことは一度もありません。別に毎日顔を会わせる相手じゃないし、普段は周囲から先生先生と煽てられているお殿様だから、言わせておきゃいいやくらいに思っていた。若い頃から殿様扱いされなきゃ気が済まない男だったし。
 私は20年間彼からそういう目下扱いを受けて不愉快な思いを強いられた経験から、どんなに目下の人間でも若造でも決して「君」呼ばわりはしません。相手がどれだけ不愉快か良く分かっているから。どんなに親しくても必ず一人前の成人として接します。私にも年の離れた義弟がいますが、私が唯一心がけているのは、目下扱いされていると誤解されるような言動を取らないことです。私が君呼ばわりするのは同窓会のメンバーだけですから。

 したら会っていきなり、「親父さんのことをどう思っているんだ?」と聞いてくるんです。いきなり何の話をするんだろう、と思いましたけど、後になって思えば、私に姉のことを話させない、その嫁いびりの話をさせないことの彼なりの戦術だったんでしょう。
 そんなことを話す気はなかったし、血が繋がっているわけでもない男と話すようなことでもないと思ったから、「ボケ老人をどう介護するかって話でしょう? 楽譜を解釈するような小難しいことを言ってどうするんですか?」と話したら、君のそういう態度は分からない、とかいうわけ。
 お前とそんな話しをする気は露ほどもありゃしないし、そんな話をするために来たわけでもないのに、なかなか本題に入らせない。
 爺さんのことに関して書いておきましょう。私の親父は、もう一年早く生まれていれば学徒出陣に駆り出されて生きてはいない世代です。戦後もすぐ結核にかかったのにペニシリンと外科手術で救われた。片肺しか無いのに、つい昨日まで煙草を吸っていた。出世には縁がなかったけれど、自分の好きなように80歳を過ぎて生き、孫の顔を見られた。大腸癌の手術は難しかったのに、それでも生き残って孫の顔を見た。戦争を生き延びて教師として社会のために尽くし、孫が一番可愛い時期に死ねるなんて男として大往生じゃないですか。
 私はそんな幸運に恵まれた爺さんに、孫の顔を見せるということで親孝行できたことをとても嬉しく思っています。あとはどう看取るかの話でしかない。義兄には子供がいないから、そんな親父と息子の機微なんて分かるはずもない。われわれは単に義務を果たして次世代へと社会を繋ぐんです。それだけのこと。親父をどう思っているんだ? と聞かれたら、他人の貴様になんぞ話す気はないし、子供もいない貴様に親父と息子の関係なんぞ話した所で永遠に分かるわけは無いだろう、というのが私の本音だった(子供のいない皆さん、ご免なさい)。

 S氏を巡る姉の度し難い妬み嫉みに関しても、私は義兄にメールでも謝ったし、その場でも、自分の女房が同業者にああいう妬み嫉みを抱くのは、何より夫に対して失礼な行為だと思う、姉が一生ああやって誰かを妬み嫉んで過ごすとしたら貴方に申し訳ないと思う-。と思うけれども一方で、あれは貴方が諭すべきことではないのか? とも言いました。
 その上で、S氏だって、私と関わり合うことを快く引き受けたかどうかは分からない。彼も居心地は良くなかったかも知れないけれど、オケのパブリシティのためだと言われたら向こうだって断り様が無いでしょう? と言ったら、声を荒げて「知らない! 僕はそんなこと知らなあ~い!」とか言うわけ。ちょっ! こいつ!? この前は「克服した」とか何とか言いながら、全然克服してねえでいやがんの!? 末廣誠

 何てちんけな奴だよ。50歳にもなろうってのに、後輩が自分よりメジャーになった程度のことで一生妬み嫉んで生きるなんて…‥。末広誠
 そんなもの、自分はただ年取るだけ。後から来た人間が追い越していくなんてことは、どんな業界でも、固有名詞で商売している世界じゃ普通にありうることじゃん。
 何てことだろう、と思いましたよ。そりゃ物書きは妬み嫉みも肥やしになるだろうけれど、こんな矮小な奴が指揮者としてまともな仕事が出来んのか、とただ呆れるばかり。

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 で話の中で、爺さんが死んだ後、「婆さんをどうするんだ?」ということを義兄が訊いてくるわけ。私は「当然うちで引き取りますよ」と話したら、いかにも、お前はそんなことを俺に一言の相談もなしに決めるのか? という顔で「へえそうなの?」とか呆れるわけ。
 私は逆に驚いたんですよ。それを決めたのは私じゃないんです。姉が私に一言の相談も無くそう決めて、以前、女房に話したらしいんですよ。「そういうことになっているの?」と女房から聞かれて、私は「そんな話は初耳だよ」というやりとりがあったんだけど、まあ婆さんは眼が見えないことを思えば施設に入れるわけにも行かない、そもそも、この老人虐めの時代じゃ入れて貰える施設もないし。孫と暮らすのが一番幸せだろうから、部屋を空けなきゃなぁ……、と思っていた。
 したらこいつは、そんなこと一言も聞いてないらしい所か、私が勝手に決めたと思っている。そんなこと誰が勝手に決めようが、孫と暮らすのが婆さんにとってセカンドベストな選択肢であることを思えば、別に私が意見を求められたか否かはどうでも良い話です。
 なのにこのバカ男は、その程度の話すら自分の女房とすることなく、私が勝手に物事を決めたと勘違いしている。あげくにその選択が気にくわないらしい。なんだよ、こいつは……、と思いましたね。たぶん婆さんを抱え込んでの年金暮らしでも当てにしていたんでしょうが。

 それで私は早く姉の話に入りたかったんだけど、義兄が「君にはお姉さんに対する感謝の気持ちはないのか?」と言うわけ。
 私はきっぱり言いましたよ。素直に感謝の気持ちが表明出来れば良いけれど、あんなことをされたら付き合いきれないと
 したらバカが! とか話にならん! とか捨て台詞を残して席を蹴って出て行った。こいつはいったい何しに来たんだろう…‥、と思いましたけどね。私は何度もきちんとメールで、もうこれ以上は不可能というほど平身低頭に出て要件を伝えたにも関わらず、自分の望むような話を私がしなかったものだから、捨て台詞を残して逃げて行く。

 その直後にヨドバシで、実家に帰省していた家族と合流したんですよ。義兄が出て行ってから20分も経っていなかったですね。姉から女房宛に早速嫌味ったらしいメールが届いている。こいつら夫婦して人の話は全く聞かんくせに嫁いびりだけは熱心にやる!

 それで、とにかく義兄も婆さんも、しきりに姉への「感謝」を表明しろと迫るわけ。私はこれが全然解らないんですよ。自分の親のことじゃないですか。その面倒を見ることが、どうして感謝云々という話になるのか。
 私は義兄にも言ったけれど、姉が帰れないのであれば自分が帰る。そのことに関しては、息子として当たり前のことだから、別に誰かに感謝を求める気は毛頭無いと。というのは、やっぱり感謝を求めるということは、「嫌な行為を垂範していること」に対して、感謝するということでしょう? そりゃ姉にとっては、帰省して親の面倒を見るなんてことは本当に嫌なわけですよ。居場所は無いし、今は惚けたとはいえ、爺さんとは衝突してばかりだったから。惚けた上でのいろんな間抜けた行為であるのに、あれもこれも「許せない」と言うし。
 私としては、私に感謝を求めるような行為をしているつもりなら、俺は望まないから、余計なことするな、ですよ。
 そりゃいくら子供がいないとはいえ、つい昨日まで働いていた姉はやっと自由になってやりたいことはあるだろうし、旦那にとっても女房は家にいてくれた方が良いでしょう。でも、田舎を捨てて上京した時点でこういう日が来ることは解りきっていた。その時には、都合が付く方が帰省するのは仕方ない話なわけでね、私はいろいろあって今はなかなか帰省できない、それを姉が帰省していた。結果としてそれが精神的におかしくなる原因になってしまったけれど。
 嫁いびりが無ければ、そりゃ感謝を表明しない理由は何も無いけれど、この状態で感謝まで表明しろなんて迫られたら、お前ら何様だよ? ですよ。

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 私が唯一、気に掛けたのは、この話を田舎抜きですることでした。姉の精神状態が良くないなんてことをちょっとでも婆さんに感付かれたら、普通は、じゃあ帰ってこなくて良い、ということになるでしょう。現状、婆さんは、私が帰省しても役に立たないから帰ってくるなと姉を頼り切っているから、婆さんにだけはそれを悟られたくなかった。一方で私は、姉がこういう状態で帰省し続けることによって、隣り近所を巻き込むことを心配したから一日も早く専門医に委ねたかったわけですが。

 夜になって、婆さんから電話が掛かってくる。ひっくり返りましたよ。義兄が婆さんに私のことをチクッて、「僕はもう足が震えました」とか泣きついたらしい。田舎だけは巻き込みたくなかったのに、このバカは、人の親を人質に取るような汚い真似まで平気でしやがる
 以前、義兄が原因で、爺さんが倒れて死にかけたことがあったんですよ。このバカ野郎は、婆さんが心臓発作でも起こしたらどう責任を取るつもりだろう、と咄嗟に思った。なのにそんなことは一切考えずに親を巻き込んで問題をややこしくする。

 私の義兄は昔からそうだったんです。私の前に現れた時から同じ手口。私のことで気にくわないことがあると、私の親にチクるんです。私に直接文句を言うんじゃなく、親に謝罪させる。それで私の親は、娘を嫁に出したという弱い立場だから、事情なんかへったくれもなしに問答無用で、息子が無礼を働きまして……と平身低頭義兄に土下座する。そればかりか、義兄は自分の親に対しても私の親を土下座させて悦に入っていた。それがよほど快感だったのか、その卑劣な手口は昔から全然変わらない。私はこの20年間、こんなろくでもない奴のご機嫌とりにへいこら頭を下げ続けた。ただの一度として私の半分の稼ぎがあった年も無い男にですよ。姉の稼ぎでやっと暮らせていた半人前の男に、ただ年下というだけのことで、へいこら付き合わされた。今となっては、ただの親の仇ですが。

 婆さんは婆さんで、爺さんが惚けているという現実をなかなか受け入れられないわけです。ただ状況が大変で、娘がいろいろと手助けしてくれているという思いがある。実際、それが便利で便利でたまらないわけですよ。男の私より、娘の方が何かと便利で楽しいことは解りきっている。それが娘への非常に強い依存心を引き起こしていて、そういう部分では婆さんもあまり正常じゃないんだけど、とにかくひたすら電話口で私のことを罵るわけ。お前はなんでそんな歪んだ人間になったんだ!? とか。

 しかも、姉が婆さんに入れ知恵した夏頃からずっとそうなんだけど、またしても「姉に対してメールをするんじゃない!」と婆さんが私に言うわけです。私はその夏の「読まずに捨てる」というメールを貰って以降、実姉にメールしたのは、たったの一度、秋に川崎で待ち合わせした時に、「ちょっと遅れる」と一行メールしたそれだけですよ。なのに、婆さんの頭の中では、私が嫌がらせのメールを姉宛に延々と送り続けている、みたいな構図が出来上がっている。事実は真逆なのに。今年のこどもの日に電話があって罵りあった時も、やっぱりそれを言うんですよ。何度私が、「姉には全くメールを送っていない、メールは一方的に姉から女房宛に来ていたんだ」と説明しても聞き入れない。私の説明を何一つ信じようとしない。私が喋る言葉は、まるで右の耳から入ってそのまま左の耳から抜けて行くみたいに、いっさい反応すらしない。爺さんが痴呆症だという現実に関しても、なかなか婆さんは受け入れないんですけれど、ちょっとそれと似た感じで、私の話が全く通じない。
 眼が見えない自分の後ろで、娘がせっせと携帯で嫁いびりのメールを打っていたことを全く知らないし、認めようとしない。

 しょうがないから、姉はまともじゃないんだ、と言ったけれど、向こうはもちろん全く聞く耳を持たない。そもそも私がどうして正月早々わざわざ義兄と会うことになったのかすら、全く思いが及ばない。「そもそもなんで俺がこんな時期に義兄とわざわざ会ったと思っているんだ。そこを考えて見ろ」と言っても、頭に全く入らない様子なんですよ。ロジカルな思考の構成が全く出来ない。
 嫁に出した立場としては、旦那の肩を持つのも仕方ない、と私も思ったけれど、私は小姑夫婦の嫁いびりと、それに加担する親という図式だけは絶対に許せなかったから、その日を最後に田舎に電話するのを止めました。それまでは1日置きにテレビ電話して孫の顔を大画面テレビで見せていた。私はその日以来、一度も鹿屋に電話してません。

 先月の子供の日に、爺さんが無邪気な声で、孫の声を聞かせろと電話して来たものだから、婆さんを出せ! 娘夫婦がしでかしたことで俺の嫁に詫びの電話も無く孫の声を聞かせろとは順序が違うんじゃないのか? と婆さんに言ってまた罵り合いですよ。
 私ははっきり言ってやりました。姉のことは所詮ただの病気だから、許すも何もない。昔からああ言う性格だったし。医者に行けば済む話だ。だが、義兄だけは絶対に許さん、と。婆さんの記憶にしっかりと残るよう、「あいつは人間の屑だ!」、と3度連呼してやりました。俺は子の親として、自分の家族を守るためなら火の玉になって闘う。あんな子育ての苦労も知らん半人前の男(度々御免、子供がいない皆さん)の嫁いびりは絶対に許さん。自分の家族を守るために田舎と絶縁するくらいのことは屁でもないと。二度と帰省する気はないし、あんたたちの葬式にも出る気もない、とはっきり言いました。
 したら婆さん、病院に行くのはお前だろう! とか、仕舞いには言うに事欠いて、(嫁の肩ばかり持って)「まるで養子に出したみたいだ」とか言うわけ。女房の実家の方にはもちろん何も話してないんだけど、そんなことあっちに電話してうっかり口を滑らせて欲しくないけどなぁ、と思いましたが。

 散々世話になっておいて親孝行がしのごのと婆さんは言うわけだが、自慢じゃないが、私は今まで自分の親と仲違いしたことは一度も無い。そりゃ迷惑も心配も山ほど掛けたが、少なくとも仲違いしたことはない。翻って姉夫婦は何度も親父と衝突して、数年間付き合いを絶ったことも一度ならず。「連絡先を田舎に教えないでくれ」ということもあったし、義兄が原因で爺さんが倒れて、慌てて家族で帰る羽目になった時には、姉からそういうことだったと報されてひっくり返ったけれど、何しろその義兄と姉と爺さんというのがまた似た者同士の性格なんですよ。
 挙げ句に今回も婆さんから言われたけれど、うちでは「指揮者でいらっしゃるお兄様にどうして尽くせないんだ?」ということが平然と爺さん婆さんの口から出てくるんですよ。私が働き始めた時からずっとそうでした。私が小説家としてデビューして、これから大事な時期という時に、爺さんから平然と言われたものです。「お前の仕事なんざもう一切どうでも良い。指揮者として大成しなきゃならんお兄様のために身を粉にして尽くせ」と。何しろ爺さんとしては、息子を指揮者にするのが音楽教師としての夢だったから、自然とそういう発想になるわけ。
 丁度デビューした直後でしたね。ああ、親父にとっては俺の成功なんかより、義兄の成功の方がずっと大事なんだな……、と思ったけれど、当時の私は自分の仕事を軌道に乗せることしか頭になかったから、言わせておけくらいにしか思わなかった。

 いずれにしても私はここ10年近くは孫を連れて帰省するという形で親孝行の義務を果たした。別に姉夫婦と田舎がしょっちゅう拗れるからと言っても、そうやって孫が帰ってくればジジババは幸せなんだからそれでいいや、と思っていた。
 一時期、義兄が札幌を中心に活動していた時期があって、向こうにマンションを買ったんですよ。札幌なんかに引っ込んで、鹿児島で何かあったらいったいどうするつもりなんだろう、と私は首を傾げたし、もちろん親もいい顔はしなかったけれど、私がどうこう言うのも変だろうからとそれを持ち出したことは一度も無かった。
 親孝行しろとか婆さんが言うのなら、私はそれを果たした、と堂々と言える。逆に義兄夫婦に対しては、お前らあんだけ田舎と仲違いして、あげくに親への面当てみたいに遠く離れた土地に家まで買っておいて、今更でかい面をする資格なんぞあるのか? という気持ち。
 女房は毎朝6時には起きていろいろ子供たちの仕度をしなきゃならん。寝るのはいつも2時過ぎ。毎日私の半分しか寝ていない子育て中の母親の苦労なんざ微塵も知らん半人前の夫婦が、成功した後輩へのみっともない妬み嫉みを露わにし、女房に代弁させ、挙げ句に夫婦で嬉々として嫁いびりに精を出している。私は火の玉になって闘い抜きます。義兄も婆さんも絶対に許さない。いま私の眼中にあるのは、愚にも付かない作為不作為を繰り返した挙げ句に無思慮に田舎まで巻き込んで婆さんを人質に取った義兄を叩きのめすことだけです。親の仇として完膚無きまでに徹底的に叩きのめす覚悟です。末廣誠末広誠
 真剣に格闘技を習おうかと思っているんですけどね。玄関には、いつ襲撃されても応戦できるだけの資材を置いて備えています。

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 その後の経過報告 

 2008年の秋頃に姉が入院したらしいんですよ。脳か何かだという話なのですが、詳しくは知りませんし興味もありません。もし明日姉が死んだら、婆さんを人質にとった義兄に、「あんたが親を囲い込んだんだから、せっせと鹿屋に帰って爺さんのオムツを換えて婆さんの身の回り世話をしなよ。それだけの覚悟があってしでかしたことだろう?」と言ってやるつもりですけどね。
 私はそれを年明けに女房から聞かされたんです。なんでも横浜の実家の方に、婆さんから電話があって、姉が入院しているから見舞いの電話を入れてくれないかと。それで、女房が言うには、その時私が忙しかったから話はせずに勝手に電話したと。向こうは留守電だったので、当たり障りのないメールをしたら、れいによってここぞどばかりにまた長々とメールが届いたと。
 私は猛烈に怒りましたよ。何度言えば解るんだ!? と。こういう精神状態の人間は相手をすればするだけ行動は過激になるんだから一切相手をするな、その度に不愉快な眼に遭わされてきたことがどうして解らないんだ!? と。

 しかし、義兄も姉もほんとに馬鹿な夫婦で、姉が大病で入院したら、私の女房が世話しに行くしかないわけですよ。旦那は仕事があるんだから。東京で他に身寄りがいるわけでもない。二人の老後のことだって、結局は、うちの女房なり子供たちが看取るしかない。そんなことも解らずに下らん真似をし続けるんですから。

 それで、婆さんは婆さんで、夏頃から、孫が横浜に帰っていそうな時期を見計らって横浜宛にせっせと宅配を遣すようになった。姉が入れ知恵したんでしょう。そうすれば、実家の母親が気を利かせて電話をかけさせてくれるから。だから私は、極力家庭のイベントがありそうな時期には横浜には子供たちを帰さないよう心がけるようになりました。それでも帰らないわけにはいかないから、長男に、「お婆ちゃんが鹿児島に電話を掛けたり、鹿児島から電話が掛かってきたら、弟を連れて隣の部屋に逃げろ。鹿児島のばあちゃんは、ママを虐める悪い奴だから」と教え込んでいます。自宅では、鹿屋の電話番号はとっくに着信拒否設定しました。私としては、もう完全に縁を切ったつもりですから。
 次男の誕生日の時は、たまたま週末だったので昼間に食事して夕方には帰ったし、例年ならクリスマスも泊まりがけで横浜に行くけれど、今年は行かせなかった。
 正月は私も行かなきゃならないから行ったら、私が「電話しなくて良いですから」というのに母親は次男に掛けさせるんですよ。私はもちろん出ませんでしたけれど。

 私は女房に、「来年の正月はもう横浜には帰省しない」、と明言しました。なんでこんな仕打ちを受けてまでご機嫌取りさせるんだ? と。したら、これもしばらく経ってから女房が話したんですが、晦日に婆さんから横浜に電話があったそうなんですよ。
 その時に婆さんが電話口で何を言ったかというと、「義兄が私に呼び付けられて、もの凄く無礼なことを言われて、義兄は、もうどうやって家まで帰り着いたか解らない! とショックを受けた」とか言ったらしいんですよ(^_^;)。
 うちの婆さん、いつかそういう無礼なことを横浜に言うんだろうな、と思っていたらやっぱりそうなったらしい。もちろん、それは背後で、帰省していた姉が言わせたことなんですよ。年末の宅配には、義兄を擁護する姉の手紙が入っていたらしいし。
 私も女房も、何があったか全く横浜の親には話していないんですよ、未だに。さすがに、薄々は感じているでしょうけれど。とうとう無関係な人間まで巻き込み始めた。

 さすがに、婆さんのこの態度には横浜の親も呆れたらしいけれど、婆さんの年齢を考えると、そこしか話は見えないんだろう、あの歳と置かれた状況では、冷静に状況を見るべきとか言っても仕方ないだろうと思って、正月は電話を掛けさせたらしい。
 2月の頭頃、久しぶりに横浜に子供たちが泊まりがけで帰る予定があったんですけれど、そこまで侮辱されながらまた気を利かせて電話を掛けさせるようなことはさせたくなかったから、私は当日にそれを止めさせたんです。
 そういうやりとりがあって、最近やっと、鹿児島に電話させるのは止めるみたいな雰囲気に持って行けたんですが。

 それにしても信じられない話ですよ。うちに女房の存在なんて何処にも無い。もうモノ扱いですよ。人格もへったくれもない。田舎なんて嫁はモノ扱いかも知れないけれど…‥。女房の実家ですらが、礼節を尽くすべき相手じゃなく、単に義兄の文句を伝え、孫の声を聴くための道具でしかなくなっている。
 よりによって女房の実家に電話して来て、嫁いびりの背中を押していた野郎が、息子からそれを非難されてどんだけ不愉快だったかを蕩々とその嫁の親に訴えるなんて、普通あり得ないでしょう。そこまでしてあんな奴のご機嫌取りに汲々とする婆さんが信じられない。せめてその1/100で良いから嫁のことを気遣ってやれよ、ですよ。自分が何をしでかしているのか全く理解できていない。

 だいたい1年も前のことですよ。普通、そんな非常識なことを「良いお年を」と言うべき時に持ち出さないでしょう。義兄も義兄ですよ。そこまでして自分のご機嫌取りを強いる男って、どんな精神構造だろうと思いますね。情けないというか、俺はてめえを呼びつけた覚えなんか無いよ。年末はあんたが忙しいことを百も承知しているからあんたが都合の良い年明けまで待ったじゃないか? あんたは歩いて来られる川崎駅まで俺がわざわざ出たじゃないか? 何が呼びつけられただ。不承不承やっと応じたくせに。
 しかも、「ショックでどうやって帰ったか解らない…‥」。ボケ老人を抱えた盲目の婆さんにそんなこと言って、てめえはいったい、何がどうなると思っているんだ。
 嫁いびりを止めさせてくれ、という話をするために会ったのに、その背中を押していたあんたが、いったいどんな愉快な気持ちで家路に就けるとでも思っていたんだ。本来ならボコボコにぶん殴られても文句は言えない立場だろうに。
 成功した後輩に妬み嫉みしか抱けない、自分たちの老後のことも考えられずに嫁いびりに走るわ、それを非難されたら(でもその話になる前に相手はさっさと捨て台詞を吐いて席を蹴ったわけだが)いち早く田舎の婆さんを抱き込んで土下座を強いて、いったい何をどうしたいのか。

 それで、私が相手をしないものだから、今後、義兄夫婦の憎悪が横浜の実家に向かう可能性があって、婆さんにそれ言わせたりしてくるんでしょう。今後とも十年一日のご如しで、婆さんは、義兄がどれだけ不愉快な思いだったかを死ぬまで周囲に訴え続けるんでしょう。別に田舎でそれを言われる分にはたいして構わないんですけどね。私はそれなりの親戚付き合いをして来たし、姉がどういう性格かは、田舎の連中はみんな知っているし、世間にとっては真相なんて単純な構図だから。
 一方で、姉の甥っ子たちへの過干渉という問題もあって、そもそも最終的に姉が爆発したのは私が子供たちから姉を遠ざけたことが原因ですからね。
 子供たちの登下校時を待ち伏せとか、学校関係の知り合いにコンタクトを取って、何も知らない人間に「旦那は悪くない!」とか言ってくるんじゃないか、と女房と心配している所です。

                                      2009年3月追記

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